Archive for the ‘フランス観光’ Category.

アルベール・カーン博物館/庭園

天気のよい9月の第1日曜日。今日は美術館や博物館が無料の日!お昼からブローニュにあるアルベール・カーン庭園へ足を運ぶことに。

アルベール・カーン(Albert Kahn 1860~1940)という人物は南アフリカの金鉱とダイヤモンド鉱への投資で成功し、自らの銀行を設立。その後「地球映像資料館」を設立し、世界中50カ国に写真家を派遣し多くのカラー写真やフィルムの撮影をしました。しかしながら1929年に起きた世界恐慌で破産してしまい、映像資料館は買い取られ、現在このアルベール・カーン博物館でそれらの貴重な写真が見られるそうです(私が訪れた日は改装中のようでした)。また彼は日本との関係もあります。銀行を設立した当初、急激に発展を進める日本に投資をし成功を収めました。明治時代の渋沢栄一と交友もあったそうです。

アルベール・カーン庭園
そんな日本との関係もあり、庭園には日本庭園が設けられています。ブローニュの森南西に位置する一角にこんな日本の景色が見られるとはちょっとビックリ。

まずは入り口から右手に向かって歩き始めました。するといきなり日本の伝統的家屋が立ち並び、日本人にとってはなつかしい風景が目に飛び込んできます。

Village Japonais(日本の村)

建物は全て日本から送られてきたものだそうです。屋根の修復が必要らしく2011年から工事が始まるようです。

砂まできちんとアレンジされているのには驚きました。これがきっと日本のイメージなんでしょうね。

Jardin Anglais(イギリス庭園)

大きな池が広がり、雰囲気がまったく違います。

Foret(森)

イギリス庭園を抜けるとそこからは森が広がります。小道があちこちと連なり、どんどん歩いて行きます。結構広いですよ。

都会にいることを忘れそうな空間です。

Jardin Francais(フランス庭園)

綺麗に区画分けされたフランス庭園。日本庭園とは対照的です。バラ(ちょっとシーズンが遅かったかな9月だと)や果物がたくさんなっていました。

温室もありましたが残念ながらこの日は閉まっていました。また次回に。

Jardin Japonais(日本庭園)

そして最後にたどり着いたのが日本庭園(このお隣が出発点だったVillage Japonaisです)。

池には錦鯉がたくさん泳いでいました。こども達がえさをやって喜んでいます。あ、おじさんも喜んでいました。

お昼過ぎすぐに行ったので人もまばらでしたが、だんだん人も時間がたつに連れて増えてきました。特に第一日曜日だったからかな。お散歩がてらに出かけてみてはいかがでしょうか。パリではなくパリのお隣ブローニュ市の中にある日本発見です。

アルベール・カーン博物館/庭園への行き方

Albert-Kahn, Musée et Jardins
Service des Publics
10-14, rue du Port
92100 Boulogne

メトロ10番線Boulogne-Pont de Saint Cloud(10番線の終点です) 庭園はメトロから歩いてすぐ。
バス72番(Hotel de Ville やLovreから)、52番(Operaから) 同じくBoulogne-Pont de Saint Cloudで止まります。

アルベール・カーン博物館/庭園 オフィシャルサイト

入場料金 1,5ユーロ 月曜休館

フォンテーヌブロー宮殿

パリの南東郊外55kmに位置する町Fontainebleauフォンテーヌブロー。そしてその町に構えるのがフォンテーヌブロー宮殿。フランスでも最も大きな宮殿の一つとされ、1981年にユネスコ世界遺産にも登録されています。今日ある宮殿の姿は多くのフランス君主による築城の成果であり、その始まりは16世紀初頭のフランソワ1世にさかのぼります。

パリからはGare de Lyon〈リヨン駅)から電車が出ており約45分ほどでFontainebleau‐Avon駅へ、そしてそこからはフォンテーヌブロー宮殿行きバスで15分。詳しくはページ下のフォーンテーヌブロー市オフィシャルサイトにて詳細+地図が載っています。

フォンテーヌブロー宮殿の歴史

1169年: フォンテーヌ・ベル・オー(Fontaine Belle Eau)あるいはフォンテーヌ・ブロー(Fontaine Belleau)と名前が残されている。

12世紀後半: この敷地にあった古い城はすでにルイ7世(1120‐1180)よって利用されており、カンタベリ大主教であったトマス・ベケット(Thomas Becket)が彼のために礼拝堂を捧げている。

13世紀: またこのフォンテーヌブロー城はフィリップ2世(フィリップオーギュスト1165 ‐1223)やルイ9世(1214‐1270)のお気に入りの城でもあった。

14世: フィリップ4世〈端麗王1268‐1314)がフォーンテーヌブロー城にて誕生。逝去もこの城にて。

15世紀~16世紀: フランソワ1世(1494‐1547)により現在のような建物へと造りかえられて行きます。フランソワ1世のもと、Gilles le Bretonという建築家が南門Porte Doree(黄金の門)を含むCour Ovale(楕円宮廷)のほとんどを建築。また王は建築家のSebastiano Serlioをフランスに招き、Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)も呼び寄せている。Rosso Fiorentinoによるフレスコでフランソワ1世のギャラリーは飾られ、これがフランスで建てられた一番最初の装飾ギャラリーとなった。

大まかに言うと、このフォンテーヌブローでルネッサンスがフランスへと流れ込んできます。

16世紀前半~中期: アンリ2世(1519 ‐1559)の治世において、Salle des Fetes(祝祭の広間)がイタリアのマニエリスム画家Francesco PrimaticcioとNiccolo dell’Abbatteによって装飾されます。「フォンテーヌブローのニンフ〈妖精)」は、宮殿装飾のために作られましたが、現在はルーブルにあるそうです。さらにアンリ2世とCatherine de Medici(カトリーヌ・ド・メディシス)により拡張建築がなされます。アンリ3世(1551‐1589)フォンテーヌ城にて誕生。

16世紀後半~17世紀前半: このフランソワ1世からアンリ2世までに築かれてきた城にアンリ4世(1553‐1610)は中庭を付け加え、名をCour des Princes(王の中庭)とした。その庭にはGalerie de Diane de Poitiers(ディアーヌ・ド・ポワチエのギャラリー)や Galerie des Cerfs(雄鹿のギャラリー)が設置され図書室として利用されていた。さらに木々で覆われた庭園に1200mの水路を設け、松やエルムの木、果樹などを植えるように命令する。ルイ13世(1601‐1643)フォンテーヌ城にて誕生。

1685年: ルイ14世により「フォンテーヌブローの勅令」発令。これによりナントの勅令が破棄されることになります。ナントの勅令とは、1598年アンリ4世によるもので、プロテスタント〈ユグノー)などに対してカトリックと同じ権利を与えるという勅令。

18世紀後半: 城の不運が始まる。フランス革命期に多くの調度品が売りに出される。国民のための資金を調達する目的と、ブルボン家が二度と贅沢な生活に戻れないようにするためである。しかしながら、10年も経たないうちにナポレオン・ボナパルトがこの城を彼の力のシンボルとして利用するようになる。荷馬車が通れるよう石畳のエントランスに作り変えさせたりこの城の修正を図り、ナポレオンによって現在我々が目にする宮殿が完成されます。

1814年: フォンテーヌブロー宮殿にてナポレオンが親衛隊に別れの挨拶をし亡命する。

こうして見てみるとさまざまな王たちがここフォンテーヌブロー宮殿で過ごしてきた様子が分かります。では、ここから中の様子を。


まず門をくぐり敷地内に入るとお城までの石畳の道が続きます。ここがナポレオンが近衛兵と別れを告げた「別離の中庭」。ナポレオンはエルバ島へ流されます。


横を見ても上を見ても隙間のないくらいの装飾です。こちらは「皿の間」と呼ばれ皿絵で飾られています。一枚一枚よーく見てみましょう。セーブル陶器博物館でも同じものを見ました。


扉の向こうに見える奥行きに圧倒されます。


フランソワ1世の回廊」。壁にはフランソワ1世の紋章サラマンダーとイニシャルFの文字が見えます。サラマンダーとは、《苦難に負けずに貫き通される信仰や熱情にとらわれない貞節、善なる火を燃え上がらせ悪なる火を消し去る正義を表す》とされています。


そしてこちら、「フランソワ1世の回廊」にあった絵。人が集まって話していたのを横で聞いていたところ、この白い像は力と知恵の象徴で足元のコウノトリが国王の母への敬意を表しているんだとか。一つ一つちゃんと意味があるんですね。フランソワ1世がイタリアから呼び寄せた画家ロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino)のフレスコ画だそうです。


皇后の寝室」〈左と中央)。歴代の王妃や皇后の寝室として使われてきたそうです。


ルイ13世の間」(右)。ルイ13世がフォンテーヌ宮で誕生。父アンリ4世がその誕生を祝って豪華に改装したんだそうです。テーブルの上にはセーブル焼きの壺、そしてそのテーブルにも工夫がしてあり座る人ごとに各引き出しが付いています。


次から次へと豪華な部屋が現れます。左写真は「マリーアントワネットの小部屋」。フォーンテーヌブローはもともと王たちの狩猟を楽しむ場所として城が建てられました。ルイ16世ももちろん毎年ここへ猟をするためにやってきたことでしょう。しかしこの時代には城の老朽化が進み、王の間が拡張され、王妃の小部屋が改装されることになりました。改装後はマリーアントワネット好みの装飾に変えられ、部屋にある家具も彼女用にデザインされたものです。「皇后の寝室」にあるベッドもマリーアントワネットのために作られたものです。右写真は「王の控え室」。


ナポレオン王座の間」(左写真)。ナポレオンがここに座っていたんですねえ。両端のポールの上にナポレオンのイニシャルNが見えます。そして中央写真は「ナポレオンの小部屋」と呼ばれ、この机でいろんな案を練っていたんでしょうね。机には仕掛けがあり一瞬で書類が隠せるようになっているそうです。ナポレオンはあまり寝ない人だったようで後ろに簡易ベッドが備え付けてあります。右写真はナポレオンが読んだであろう本が収められている「ディアナの回廊」。


そしてこちらお風呂(左)。ナポレオンはお風呂好きだったとか。「ナポレオンの寝室」〈中央と右)。こちらも落ち着いた緑色で統一されています。ここにおいてある椅子にも工夫がしてあります。暖炉にあたる側は手掛が低くなっており、もう片方は高くなっています。よく温まれるように工夫してあるんですね。


会議の部屋」(左)。そして赤で統一された「退位の間」(右)はナポレオンが退位するときに書類にサインをした部屋だそうです。


そして途中みつけたおもしろい一品。中央は秒針と分針の付いた普通の時計なのですが、その周りに曜日だの月名だの、うるう年だの、太陽、月の位置だの星座だのといろんなものがくっついています!


トリニテ礼拝堂」。左は城に入ってすぐのところで、礼拝堂を見下ろすような感じ。右は下から見上げた様子です。元は聖王ルイが建てた聖堂を三位一体修道会(トリニテ修道会)が引き継ぎました。ここで国王と王妃が毎日ミサに参加していたんですね。


さあ、外に出てちょっと休憩。たくさんの部屋を見終わって、主人と一緒に歴史話。ヴェルサイユ宮殿もそうですがこれだけの財力が一部の選ばれた人間に集中するなんてものすごいことですよね。そんな時代があったからフランス革命につながるのでしょうが。歴代王が居住した宮殿ということで、なんとなく一度にいろんな時代を駆け回ったような一日でした。

さあ またバスと電車でパリに戻ります。ちょっと大変だけれども時間があればぜひ一度。

関連サイト
フォンテーヌブロー市オフィシャルサイト

フォンテーヌ宮殿オフィシャルサイト

以上参考ウィキペディア、宮殿内ガイドより

セーヴル陶器博物館

パリの南西郊外セーヴルにあるMusee National de Ceramique(陶器博物館)。

メトロ9番線のターミナルPont de Sevresを出てセーヌを越えるとその建物が見えてきます。

入り口に大きな陶器の長細い壺が立っていて、中へ入る前にそこで立ち止まってしまいます。入ると受付と売店スペースがあり、入場料金は4.5ユーロ。

まずは一階部分。いろんな国の古い時代の陶器が並んでいて、描かれている絵など少しプリミティヴなものもあり興味深い。フランスはもちろん、スペイン、イタリア、オランダ、オアーストリア、中国、イスラムなどの作品が展示。

そして2階へ上がると、まず巨大な陶器の作品に驚かされます。広い空間にそびえるような大きさ。近寄って倒してしまたっらどうしようと心配になってしまったり。そして次の部屋には国別のコレクションが展示してあり、例えば、フランスの中でも、プロヴァンス焼きなど地方別になっているのがおもしろい。プロヴァンス出身の主人が「プロヴァンスは他の地域と違ってハチやチョウがたくさん描かれているね」と。確かに。プロヴァンス陶器に描かれているくらいのかわいらしい虫ならいいのですが、中には結構リアルな虫が描かれているお皿があって、この上に料理?と・・・・(どの国か忘れてしまいましたが)。もちろん高級な銀食器などのコレクションなどもあり、どれもこれも見ていて楽しい。それから日本からの陶器作品も展示されていましたよ。日本の作品は飾ると言うより癒すというか、見ているとふーっと吸い込まれそうな作品が多い(表現が抽象的ですみません)。主人も家にあったらいいなあと思うのは日本の作品だと。

思っていたよりも広いスペースで作品も多く結構楽しめました。

さて、このセーブル陶器博物館の歴史ですが、結構古い(当然ですが)。

まず、ルイ15世の統治時代に王の愛妾であったMadame de Pompadourの影響を受け、1740年に陶器アトリエがヴァンセンヌに設立され、さらに1756年このアトリエがセーヴル(Madame de PompadourのBellevue宮殿近く)に移され1759年に王立窯となります。

博物館の創立はAlexandre Brongniart(1770~1847)という人物と大きく関係があり、彼はGeroges Cuvierと協力してパリの周辺地域の地質学の調査を行なった地質学者であり鉱物学者、あるいは科学者、動物学者という紹介もあります。彼の父は建築家のTheodore Brongniart、また彼の息子Adolphe Theodore Brongniartは植物学者でもありました。

少し話がずれますが、父親のTheodore Brongniartは1804年にナポレオン・ボナパルトにペール・ラシェーズ墓地の設計を任され、さらに1807年にはパリ証券取引所のデザインも任されています。

Alexandre Brongniartは、パリで生まれ、鉱物学校の教師をしていたが、1800年、当時内務大臣であったLucien Bonaparteによってセーヴル陶器工場のディレクターに任命される。セラミックの化学と鉱物学エンジニアのつながりがまさに彼にとって最高のポジションへと導いたのです。彼のすばらしい能力のおかげで彼は政権が変わる中、47年間セーヴルを運営管理しました。

また爬虫類の新しいクラス分けを紹介したり、鉱物学や陶器芸術の論文なども書いています。

Brongniartはセーブル陶器工場のディレクターでありまたセーブル陶器国立博物館の創設でもあります。1823年には、Royal Swedish Academy of Scienceスウェーデン王立科学アカデミーの外国人メンバーに選ばれています。

そして、1876年第3帝政時代にはこの陶器工場と博物館が政府によってサンクルー公園の一角に移されます。現在もこの博物館の裏のアトリエで陶器が作られており、ここで作られたものをセーブル焼きと言います。売店でお土産用に売られていますがかなりのお値段ですので私は見て楽しむだけ・・・。

Musee National de Ceramique オフィシャルサイトはこちら

この博物館の右となりには広大なサン・クルー公園が広がっています。時間のあるときにゆっくり足を運んではどうでしょうか。観光サン・クルー公園のページも参考に。

以上ウィキペデアと博物館パンフレットより訳/要約

フィリップ・オーギュストのパリII(左岸編)

さて、前ページフィリップ・オーギュストのパリ(右岸編)に続き、今度は左岸探索です。普段見慣れた景色の中にまたどんな新しい景色が見出せるのかワクワクしながら出発です。

出発地点はパリ6区のHotel des Monnaies(造幣局)です。お隣にはInstitute de France(フランス学士院)という立派な建物が立っています。シテ島のノートルダム観光から人が流れてくるのでしょう、毎日観光客が多いこの通り。大きな観光バスもたくさん通っています。そんな賑やかな通りとは対照的にひっそりと一つ史跡紹介パネルが。

La Tour de Nesle(ネールの塔)。『右岸におけるフィリップ・オーギュストの城壁の出発点。1200年ごろに建造され、もともとはこの建造物に住んでいたプレヴォ(憲兵隊長)の名をとってLa Tour  Filippe Hamelinと呼ばれていたが、1270年ごろL’Hotel de Nesleにより強化され総合建築物の一部となった。さらに1308年には端麗王フィリップ4世の手に渡る。伝説によるとブルゴーニュの3人のプリンセスMarguerite、 Blanche、Jeanneの受難が残されています。3人は未来の王ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世のお妃だが義理の妹Isabelleにより訴えられます。その内容とは彼女らがGaultierやPhilippe d’Aulnayらを招き入れ不貞を働いたからだという。そして訴えの後すぐに拷問にかけられ、斬首刑となる。』

あるいは、妃マルグリットと妹ブランシュは捕らえられてガイヤール城へ幽閉され続け、ジャンヌのみ無罪が認められ宮廷に戻れたなど、さまざまな説が残されているようです。

この上に昔は塔が立っていたんですね。今はこのパネルとその建物の一角とみられる部分がひっそりと残るのみ。

周囲にはフランス学士院(左)と造幣局(右)の立派な建物が立っています。

それでは次に、造幣局の前を通過し右折、Rue GuenegaudをまっすぐRue Mazarineに突き当たるまで歩きます。そこで左折して少し歩くと史跡パネルとPのサイン、パーキングが見つかるはず。


まずパネルですがフィリップ・オーギュストの城壁とあります。『13世紀に建造された城壁はシャルル5世の時代まで軍事的に利用はされず、左岸ではこれらの城壁は現状で十分であるとみなされていたため、簡単に補強され、水のない乾いた堀で囲まれました。そしてこのMazarine通りがそれを証明しています。フィリップ・オーギュストの城壁の外につくられたこの通りは17世紀にRue des Fosses de Nesle(ネール堀端通り)と名づけられています。中心都市の発展にともない、中世の要塞がゆっくりと都市構造の中へと吸収されていきます。大きな壁は大邸宅などの境界、家の基壇、砕石場となったり、塔は住まい、アトリエ、あるいはチャペルなどに利用されました。そしてここでは、長い壁面と塔の土台部分が地下駐車場で目にすることができます。このような城壁の連続的再使用が多くの遺跡部分を残し、また極端な破壊から守っているのです。』

では、駐車場の中へ。地下2階と3階にかけて城壁が確認できたと思います。見た瞬間本当に驚きました。フランス人の主人ですらビックリ。知らなかったと。

またこのパネルの左側にはpassage Dauphineパッサージュ・ドーフィヌがあります。この界隈の建物の中には城壁の一部がうまく取り入れられていることでしょう。

マザリヌ通りのお店の中にも城壁らしき壁の一部をウィンドー越しに見ることができました。きっとあれもそうだよと言いながら歩いて行きます。

では今度はRue St Andre des ArtsにあるCour du Commerce St Andreとうパッサージュへ。


左写真が入り口です。中へ入るとでこぼことした石畳が。ちゃんと見て歩かないと躓きます。この抜け道にはカフェやレストランが並び、ここで一服しているギャルソンたちも。右写真は見にくのですが、工事中のお店があり中をのぞいてみたら巨大な城壁の塔が中心に。ちゃんとその部分は保護がされているようで、仕上がりがどうなっているのかまたいつか行ってみようと思います。


有名なカフェ・プロコープもここにあり、表通りと裏通りのパッサージュの写真です。

では、サンジェルマン大通を渡りRue A.Duboisと、さらに進んでお隣5区へ足をのばしRue Malebrancheという小さな通りを見つけます。この2箇所は掘割の上にできた道でその様子がそこにある階段でよくわかります。お堀でできた段差を調整しているんですね。不思議な通りです。

さらにパンテオンを左にRue de L’estrapadeを進みRue Blainvilleで少し休憩プラスランチ。朝10時に出発してなんだかんだとぶらぶら歩いていたらもう12時!腹ごしらえです。そうこの通りも斜めに坂になっていてお堀の名残だとか。そしてここに私たちがよく通う韓国料理のお店Han Limがあります。この日もいつもの鶏のから揚げとビビンバです!

いつも来るこの通りがそんな歴史の上に建っていたなんて本当に感動です。そしてこれまたよく通っていた通りRue du Cardinal Lemoine。なんだか地図を持った人がちらほら、そのうちグループでなにやらレクチャーしている人が・・・。え、何があるの?と、のぞいてみたら、あるじゃないですか、大きな城壁が!!!今までまったく気がつかずに通り過ぎていました。Rue du Cardinal Lemoineから少し入ったRue Clovisにアパートの壁にぴったりとくっついて城壁が保存されています。

さあ、これでフィリップ・オーギュストの城壁跡をぐるっとまわったことになります。足もクタクタです。でも何よりもパリを違った視点から見ることができたことは価値が大きいです。こんな風にして歴史が町の空間の中に生かされていることは非常にすばらしいことだと思います。この城壁の右隣にあるアパートの中庭にも壁の一部が使われていました。すごい国ですよね。すべてが自然に町の中に溶け込んでいるんです。

皆さんもちょっと違ったパリの探索をされて見ませんか。とってもおもしろいですよ。

フィリップ・オーギュストのパリI(右岸編)

ある日、ふと書店で見つけた一冊の本。面白そうなタイトルだったので夏のヴァカンス中に読んでみようと購入。すると実に興味深いお話がたくさん。パリに住んでいて、今までなんとなく気になっていたことをスパッと解決してくれました。それはパリの中に潜む中世の姿。そう、パリの街中で見かけた奇妙な場所が実はものすごい歴史のある遺跡だった!

その時代はフィリップ・オーギュストと呼ばれる王がフランスを支配していた中世にさかのぼります。

まず旅を楽しむためには歴史から。

カペー朝(dynastie des Capétiens 987年~1328年)
世界史を勉強された方なら懐かしい名前かもしれませんね。もともと西フランク王国が存在し、987年に西フランク王ロベール1世の孫に当たるパリ伯ユー グ・カペーがフランス王になりカペー朝が始まります。その領土はパリ周辺の小さな地域で王の権力はまだ弱く、12世紀前半のルイ6世から王権の強化が開始されます。1180年には、ルイ7世の子、フィリップ2世がフランス・カペー朝第7代王となり、さまざまな活躍を見せます。一番大きな功績 としてはイギリスの大陸領土をフランス領土へと回復したこと。当時イギリスのノルマンディー地方からの侵略が脅威として懸念されており、その防御策として築かれたのがパリを囲む城壁。そうこれが旅の目的となるテーマです。

またフィリップ2世はパリの整備をはじめ、パリ大学の創立への協力、ノートルダム建設の継続など内政にも力を注ぎフランス王国の礎を築いていきます。そしてこれらの業績を評価され、初代ローマ皇帝アウグストゥスにちなんで尊厳王(Augusute)と呼ばれるようになりました。

ちなみに、この初代ローマ皇帝アウグストゥスの名前から8月の英語名Augustがつくられました。それまで8月は30日までだったのが彼によって31日に増やされたんだそうです。今の子供たちの夏休みは彼のおかげで1日分長くなったということですね(偉大な業績です!)。

1223年7月14日にフィリップ2世は亡くなり、歴代王の眠るサン・ドニ大聖堂に埋葬。その後、ルイ8世(獅子王)、ルイ9世(Saint-Louisサン・ ルイと呼ばれアメリカのセイントルイスの名前の由来に)、フィリップ3世(大胆王)、フィリップ4世(端麗王)、ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4 世と続きカペー朝が終わります。 (以上参考ウィキペディアより)

では、ここからこのフィリップ2世尊厳王のパリ城壁探検へ(右岸編)。

まず、パリ4区にあるHotel de Ville(パリ市庁舎)へ。そうこの辺りはよく訪れる地域で(BHVへのお買い物)、前からずっと気になっていた通りがありました。ちょうどこの市庁舎 の裏手に教会(St,Gervais-St,Protais)があり、この教会の裏道がなんだか他の景色と比べてちょっと違うんです。Rue des Barres(柵通り/柵で囲まれていた地域)と呼ばれ、通り自体短くて人もまばらなのですが、そこだけ石畳で古い時代を感じさせます。 カペー朝の王たちがここから市壁を築いたと伝えられているそうです。春になると小さな植え込みにある花々がとてもきれいで、途中にある少し広いスペースに は小さなお店が何件か。「フランスお土産スイーツ」のページでも紹介 している教会が作ったBIO食品のお店もここにあります。その名もProduits des Monasteres。セーヌ川沿いにはおしゃれなカフェやレストランが数件軒を並べいます。

Rue des Barresを抜けたら、左に曲がり世界各国からの芸術家が集まるCite International Des Arts(国際芸術都市/パリで見つけた芸術のページで紹介しています)を過ぎます。すると目の前にまた歴史のありそうな建物が現れます。城壁とは関係ないのですが、ちょっと立ち寄ってみました。

この建物はHotel de Sensサンスの館と呼ばれ、当時パリはサンス大司教区に属しており、Sens(サンス/パリ南東に位 置する町)の大司教によって所有されていました(1475年~1570年に建設)。建物自体は後期ゴシックと初期のルネッサンススタイルの間に当たり、現在はForney art library(芸術・産業技術の専門図書館)となっています。パリに残る3つの中世私宅の一つだそうです。


建物の裏は小さな公園になっており、ここでちょっと休憩をとってもよさそう。

さらにHotel de Sensの前の通りを渡り、お隣Lycee Charlemagneリセ・シャルマーニュへ。


この城壁の姿が視界に現れたときには、主人も私も感動!こんなところにこんな遺跡が残っていたなんて・・・と。壁の向こうがリセで、城壁をはさんでこちら側はグラウンドになっていました。二つの塔も確認できますね。


奥の方の塔に近づいてみると、その向こうは普通の道路。昔はここにそびえたつ塔があったんだなあと思いながら空を仰いでみます。

パネルには、『十字軍遠征中パリの防衛が手薄になるのを心配し1190年にフィリップ・オーギュストが右岸に城壁の建設を開始させた。1200年からは続いて右岸の工事も開始。』とあります。

さらに進み、この通りのすぐそばにあるRue Francois Miron(フランソワ・ミロン通り)へ向かいます。すると11 番、13番地にこれまた雰囲気の違う建物が現れてきます(城壁には関係ありませんが)。15世紀の建物だそうです。


こんな歴史のある館ですが、一つの部屋がVendu(売却)とありました。そしてその下の部屋を見るとLouer(賃貸)とサインが上がっていました。 うーん、どんな人が住んでいるんだろう・・・。

Hotel de ville へ戻り今度はここから北上しArchivies Nationales(国立古文書館)を目指します。通りでいうとRue des Francs Bourgeois。古文書館の入り口正面に着いたら後ろを振り返ってみましょう。そうすると通りの向こうに立つ建物の隙間からひょっこりものすごい建築物が目に入ってきます(かなり感動)。フィリップ2世時代の塔の一部です。


振り返った瞬間、私も主人も大感動!!!

そしてずっと気になっていた場所がもう一つ。Rue des Francs BourgeoisをChatelet Les Halles方向にまっすぐ歩いて行きます。途中から通りの名前がRue Rambuteauとなり、その通りがRue du Louvreにぶつかったら左折します。Rue du Louvre 13番地には城壁の痕跡が!


右の写真、PHILIPPE AUGUSTEフィリップ・オーギュストの文字が見えるでしょうか。平凡な通りの上に古い建物がいくつか並び、その中央に位置するえぐりとられたような形をしている建物。ここに塔が昔あったということを示しています。


ここに塔がそびえ立っていたんでしょうね。今は柵に囲まれて保護されています。お隣の建物の壁には古い広告の跡が残っており、こちらは主人が興味を示していました(右写真/余談)。

そして最後に、ルーブル美術館。訪れた方ならご存知だと思いますが、シュリー翼入り口をまっすぐ進むと中世の要塞が現れます。こちら もフィリップ2世時代の城壁の一部です。中世時代のルーブルはパリを守る要塞の一部としてつくられ、建物の中は武器や兵士の宿舎、あるいは牢獄として機能 していたそうです。結局イギリスからの攻撃は受けなかったそうですが。

(こちらのイメージはウィキペディアより)

さて最後になりましたが、私が参考にしたお薦めの一冊をご紹介しましょう。


パリ歴史探偵術 著/宮下史朗 講談社現代新書

歴史好きな方はもちろん、パリをちょっと違った角度から見てみたいという方におススメ。とても興味深いお話がたくさん詰まっています。パリを訪れる前に読 んでみてはいかがでしょうか。きっと旅のヒントが生まれますよ。

普段何にも知らずに通り過ぎていた場所が、今はとても貴重な空間に思えてきます。「知る」ということはこんなにも生活を豊かにしてくれるんだなあと改めて感じました。そう、パリはエッフェル塔や凱旋門だけではないのです。町の隅々にまで歴史が詰まっているのです!

続きはセーヌ左岸に渡り歴史探索です。フィリップ・オーギュストのパリ(左岸編)

パリ4区関連ページ:パリ4区マレ地区のおススメ